気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

ネトウヨとお花畑の不毛な議論?

不毛な議論が多いように見える

原発集団的自衛権周りの話を見ていると、感情的な対立が先行し、議論が不毛に見える。

不毛なことを言うと感じる人たちの議論は、賛成反対を問わず、

  1. 未来の想定がかなり入った事例をあげて、大変なことになるぞという恐怖心をあおる。
  2. SNS等を通じて、仲間感覚と敵への対立感情を強化していく。

という構図に見える。

 

それに対してきちんと議論出来ないのという疑問は当然出てくる。

この意見で注意してほしいのは、どちらの方も比較的リベラルな発言をしている方だが、日本的リベラルの状況を「お花畑」と形容していることだ。

この「お花畑」の逆が、保守的な人からも批判される現在の首相みたいな「ネトウヨ(素朴な軍事マニア)」だろう。

 

気がつくと、「ネトウヨ」VS「お花畑」なんて構図に回収されて、大事な問題が議論されないままになる。

そして、外からはうっとうしいから喧嘩すんなよ、みたいなムードが漂うなんてことになりかねない。

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若者はなぜ動かない?

なんで若者は、安倍政権がこんなに無茶苦茶してるのにデモを起こさないの?

って話を時々聞くことがある。

 

私は三十路なのでもう若者ではないのかもしれないけど、まあそこは許してください。

で、私は、政権による憲法解釈というロジックは無茶苦茶だよな〜と憤りつつも、

まあ、若者がデモを起こすという行動にはならないだろうなって感じるので、

考えるところを少し書いてみる。

 

海外での若者の活溌なデモ活動、特に台湾での国会占拠などを見ると、

デモ自体は、海外では現在進行形で行われている事象であり、

賞味期限切れのコンテンツとは言えないんだろうね。

 

でも、日本でのデモ活動は、

古いコンテンツだと思われてるから盛り上がらないのではないかと思ってる。

 

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ユーロ圏に起こるかもしれない銀行のマイナス金利を考える

ニュースに気になる話題があったので連続でツイートした内容を少し整理して記事にする。

 

ユーロ圏の銀行、大半がマイナス金利に対応する準備整う | Reuters

引用ここから

[ロンドン 30日 ロイター] - ユーロ圏の大半の銀行は、欧州中央銀行ECB)が6月5日の理事会でマイナス金利を導入したとしても、業務面で対応できる準備が整っていることを自国の中銀に伝えている。

ユーロ圏の銀行で短期金融市場部門を担当する幹部は、マイナス金利が導入された場合、業務にどのような影響が出るかが問題となるが、ECBが1年以上にわたってマイナス金利導入を示唆していることから、銀行のシステムを含め、対応する準備は十分整っているとの見方を示した。

〜以下略〜

引用ここまで

 

このニュースを見て、マイナス金利には違和感を覚える人も多いだろう。

しかし、現実に起こりかけている。

 

でも、マイナス金利は、よく考えるとおかしくもないのかも知れない。

このニュースで、下の本の中でダスグプタにより紹介されていた議論を思い出したので、噛み砕いて紹介する。

Amazon.co.jp: 経済学 (〈一冊でわかる〉シリーズ): パーサ・ダスグプタ, 植田 和弘, 山口 臨太郎, 中村 裕子: 本

 

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Time of your life

友人の結婚式の後、カラオケで歌って、改めて良い歌詞だと思ったので再び掲載。

 

Good Riddance (Time Of Your Life)

Another turning point, a fork stuck in the road
変わるべき時が来たね、道が示されている
Time grabs you by the wrist, directs you where to go
貴方の時が来て、どこに行くべきがが示されている
So make the best of this test, and don't ask why
だから、この試練には、理由なんて聞かずに、ただベストを尽くせ!
It's not a question, but a lesson learned in time
こんなの分かることじゃなくって、分かって来ることだから

It's something unpredictable, but in the end is right,
未来なんて分からないけど、上手く行くと思ってる
I hope you had the time of your life.
だから、モノにしろよ!

So take the photographs, and still frames in your mind
写真を撮って、心に残そう
Hang it on a shelf in good health and good time
そして、良い思い出として棚に飾ろう
Tattoos of memories and dead skin on trial
思い出の残り香が気になるかも知れないけど
For what it's worth it was worth all the while
今まで価値のあったモノは、本当に価値があるモノのためにあったんだ
 
It's something unpredictable, but in the end is right,
未来なんて分からないけど、上手く行くと思ってる
I hope you had the time of your life. 
だから、モノにしろよ!

It's something unpredictable, but in the end is right,
未来なんて分からないけど、上手く行くと思ってる
I hope you had the time of your life. 
だから、モノにしろよ!
 
It's something unpredictable, but in the end is right,
未来なんて分からないけど、上手く行くと思ってる
I hope you had the time of your life. 
だから、モノにしろよ!
 

ライブハウスのノルマについて

ライブハウスのノルマ制度に対する批判があると聞いて少し調べてみたけど、私が調べた限りでは、ライブハウスは出演者に使用料を科し、集客に応じて出演報酬を支払っているようだ。この損益分岐点をノルマと呼んでいるらしい。

ノルマ以上に集客すれば稼げるし、ノルマ以下だと支払いをすることになる。

(本来の意味のノルマは、もっと義務的な意味が強く、それ以上に働いて(稼いで)も報酬は増えないニュアンスがある気がするが・・・)

 

ライブハウスのやり方は、とても普通に感じる。

これで問題があるなら、使用料の設定と出演報酬の設定の問題だろう。

興味を覚えたので、少し考えてみよう。

 

まず、前提として、ライブハウスには競争原理が働いていると仮定してみる。

つまり、ライブハウスが平均的にかなり儲かる状況なら、新規参入があり、儲けは適切な水準に下がり、赤字ならば、ライブハウスが潰れることで、儲けは適切な水準に調整される。

 つまり、ライブハウスに競争原理が働いてるときには、平均的なライブハウスはそこそこの利潤で営業していることになる。

このとき、問題となるのは出演者の数と、お客の数の関係になる。

 

ケース1

お客に対して、出演者が過剰な場合。

これは、出演者の平均値は、ライブハウスの運営費を賄えるほどの集客力がないというケース。

この場合、ライブハウスは、お客から稼げない分、使用料を高めにして、出演報酬を低めにすることになる。

そうすることで、出演者には厳しい環境が現れ、出演者が減るか、出演者が努力によりお客を増やすことで、お客と出演者の数が適正な水準に調整される。

念のために書くと、このケースで、出演者のお客が増えた場合、使用料と出演報酬の関係が改善されなければ、他のライブハウスが出演者により良い条件を提示して利益を得るチャンスがあるので、使用料と出演報酬の関係は適切な水準に調整される。

 

ケース2

出演者に対してお客が過剰な場合。

これは、出演者の平均値は、ライブハウスの運営費を賄える程の集客力があるケース。この場合、ライブハウスが使用料を高めに設定すれば、出演者は他のライブハウスに逃げるので、ライブハウスは使用料を低めにし、出演報酬を高めに設定することになる。

条件が良いため、出演者が増えると考えられるので、お客と出演者の数が適切に調整される。

 

仮に市場原理が働いた場合の想定はこんな所かな。

さて、「ノルマ」がきついというケースが現れているなら、状況はケース1だよね。

「ノルマ」問題が本当に生じているのならば、この状況で市場原理が働いていない要因があると推測される。

 

ざっと思いつく可能性は2つ。

一つは、出演者が高い使用料と低い出演料の関係を未来への投資(あるいは夢を実現するための投資)と考えていて、受け入れてしまうケース。

この状況では、出演者は減らないので、お客を増やせない限り、ノルマは過大に設定されることになる。

もう一つは、出演者はお客が増えた後に、高い使用料と低い出演料が続いても、もっと条件の良いライブハウスには移動しないというケース。

まあ、言うなれば義理人情ケースかな。

この状況では、ライブハウスは適正水準以上の利益を得られるけど、出演者が移動しない以上は、新規参入は難しい。つまり、当初の市場原理が働いているという仮定が間違っているケース。

起こっているのはこの辺りな気がするけど、どっちなのかな。

 

前者なら、赤字のライブを実施するのが本当に未来への投資になっているのかという問いが重要な話になるだろう。

後者なら、義理人情を通すことは、結果的には市場を歪めることになり、高い使用量と低い出演料の関係を維持する可能性がある訳だけで、出演者全体の利益になっていない(その分、後輩バンドが苦労している可能性がある)のだけど、その点を認識できているのかという話が重要な話になるだろう。

(義理人情は、感情的にはとても理解出来るので難しい判断だけどね)

 

まあ、問題が生じてるとすると、この辺の複合した要因で、生まれてそうだと推測される。

 

だからどうするというのは個人の判断でしかないけど、起こってそうな状況を認識するのはきっと有益なのでないかなと思い書いてみた。

 

中の人の実感と合うのかは、今度、弟にあったら聞いてみよう。

価値観、常識、正しいということと多様性

今までとはかなり毛色の違う人と接する事になってもうすぐ3年。

価値観、常識、正しいということについて、

自分の持つ価値観の、今のコミュニティへの異質さを感じたので書いてみる。

 

個人的な話で言えば、「正しいということ、されること」、

あるいは「常識」みたいなものを全く信じていない。

 

語弊がないように言うと、

「正しいとされること」や「常識とされること」が、

「正しい≒合理的」とは、信じてはいない。

「そう言われているもの」は、玉石混淆で、

合理的なものもあれば、迷信の類いも多々あると思ってる。

 

そういう価値観からすると、

「正しいもの」や「常識」を主張されても、眉唾でしかない。

 

人間は基本的にはそれぞれの「エゴ」を

「正しい」と主張しているだけだと思っている。

 

そうすることになっている習慣を無意味に乱す必要がないときは、

「常識」に従えばよいくらいに思っていし、

逆に言えば、乱す理由があるときには、

「常識」にほとんど興味がなく、考慮すべき障害くらいに思っている。

 

先日、自分の言うことは、エゴでしかない

(同様に他人の言うこともエゴと捉えているという文脈で)という、

自分の価値観からしたら、当たり前でしかないことを言ったら、

凄く意外そうな反応と、納得したような反応をされた。

こちらは、逆にその反応をみて、

正しいものを信じている人もいることに思い当たり意外な思いがした。

 

私の理解では、正しいものというのは、

口伝で伝わっていて、正しいとされていることが正しい以上の理由は持っていない。

ただ、それが、年月を経ても正しいとされ続けている場合には、

何らかの合理性がある可能性が高いと考えているので、敬意を払う必要がある。

そして、調べてみると面白そうだという感覚を持っている。

 

それはつまり、たかだか、数世代が正しいとした価値観なんて、

当たるも八卦だと思っているので、

「何十歳上の人生の先輩が言っている」なんて言うソースは全く信頼してなく、

伝承なんかは、ある程度信頼している。

“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”という話は、

結構、言い得て妙だよねくらいの感じ。

 

合理性があると判断できれば、従うし、

合理性がなくて「常識」を乱す個人的必要のある話であれば、

「常識」なんてほとんど考慮にはいれてない。

 

そして、ここで、合理性を基準にしているのは、

自分にとっては十分に理由のあることだが、

それもただの自分の価値観(エゴ)であり、

ひとそれぞれに気持ちの良い基準(例えば「常識」)

というエゴを持っていると思っている。

 

だから、チーム(コミュニティ)を運営するには、

エゴの調整をする(常識を摺り合わせる)ことがかなり重要で、

それをやらないと、上手く廻るものも廻らないだろうと思っている。

 

もちろん、この考え方は、論理的には、

元の元を疑えば全てが疑えてしまうという、

所謂無限再帰性のワナ、底の抜けた社会のワナに嵌るのだけど、

人間には、幸いにして共有している本能がある以上を、

再帰性は感情ベースには無限にならないと直感的にだが考えている。

 

言い換えると、本能、感情ラインをベースに話し合えば、

十分にルールは作れるのではないかと思っている。

 

なので、重要なのは、ルールづくりという価値観である。

 

私にとって、多様性は、心配事ではなく、

見過ごしていたものに気づく、進歩のきっかけになる、良いものだと考えていた。

なので、価値観が遠い友人は、価値観が近い友人と同様に得難い友人だと思っていた。

 

しかし、「正しいこと」のある価値観にとって多様性は、

「正しいこと」を脅かす脅威であるようだ。

 

この2つの価値観(「エゴ」)がぶつかる場合、どちらが合理的なのだろうか。

 

私の考えでは、それはどちらも正しい。

ただ、どちらかが有利な状況があるだけである。

 

安定した状況では、多様性が少なく「正しいこと」の価値観は、

無駄な議論や意見相違のもたらすデメリットが少ない点で優位だろう。

変化する状況に対応するには、多様性のある状況の方が、

新しい状況に対応した進歩を生み出し易いという点で優位なのだと考えている。

 

なので私は、現在に対する自分の観測が、

変化する状況であるので、多様性が優位だと考えている。

 

まあ、そうじゃない時代でも、私は多様性を支持する気がするので、

今の時代でツイてたかもってな話だけどね。

低確率・高影響な事象のリスク

日経ビジネス、詳細なデータなしで原発廃止を提言した報告書」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110926/222801/
を読んでいてふと思ったこと。

予防措置等を考えるとき、リスクの評価の話は重要だ。

リスク=あることが起きる確率×起きた時の影響

これがリスクの簡単な定義。
例えば、あることが起きる確率が高ければ、
起きた時の影響が中くらいでもリスクは高いし、
起きる確率が低ければ、起きた時の影響が大きくてもリスクは小さい。

低確率×大きな影響=低いリスク 

という話の代表例として飛行機事故なんかがよくあげられる。

余談だが、複数の出来事が起きる場合には、
複数の出来事がお互いに全く影響を及ぼさない(互いに独立)なら、
単純に足すことになるし、
影響があるのならば、同時に起きる確率と、その時の影響を場合分けして、
計算することになる。

まあ、正確な話ではないけど、出来事別に確率と影響を掛け残して、
それぞれのリスクを計算してから、足すくらいに漠然と捕まえてもらえば良いかも知れない。

さて、ここで確率は非常に小さいが被害が非常に大きい時の話を考えてみよう。

仮に、普通にリスク計算をした時の計算結果は、
飛行機事故と同程度とでもしてして置こうか。
ただし、影響が飛行機事故とは比べ物にならないくらい大きい変わりに、
起きる確率は飛行機事故に比べて、とても低いとする。

例えば、千年に一度。

この時、もう1つ別の論点が必要なのではないだろうか。
それは予測の精度である。

実験室での話ならば、何かが起きる確率はある程度コントロール出来る。
しかし、実験室の外の話の場合、全ての要因をコントロールすることは不可能だ。

そういう時に、リスク計算はどうやるのかというと、大きく分けて2つの方法がある。

1つは、経験的に導きだされた数字を利用すること。
あまり、科学的でないような印象をうけるかも知れないが、
実際に世の中が動く前提には多くの経験則の数値が使われている。
保険の計算なんかは経験則の世界だし、
工学系・農学系の教科書を少し読めば、
そこには理論値とは別の経験則から導きだされた数値が山ほどある。
実社会で何かを作るときなんかは、
理論値ではなくて、その経験的数値に基づいた計算で作らないと動かないなんてことはよくある。

もう一つは、前提条件を置くこと。
例えば、事故等の事象が起きるときのシナリオを仮定することである。

この時、1000年に1度という確率は2重の意味で疑わしい。
まず、第1に、経験則に基づく数値は、
1000年という時の長さに耐えられる程の数値の精度を持っているのかという点だ。
数値の精度の問題で100年程度で使い物にならない誤差が生まれるなら、
1000年という数値は正確な表記で1000年±何年になるのだろうか。
(※100年という予測が80年〜120年の確率が高いなら、正確には100年±20年と書く)
リスク計算をするならこの誤差を含めて、リスクを±付きで書かないと話がよく見えなくなる。

そして第2にシナリオを置いて仮定するという手法自体の限界の問題だ。
シナリオによる仮定という手法は、何年程度の予測に対して有効な手法なのかという話が抜けて、
無批判にリスク計算の前提に乗っているように見える。
シナリオ分析の手法は果たして、1000年先をきちんと予測できるのだろうか。
ある程度期間が長くなると、どこかでシナリオの予測の外にある重大な要因が、
入り易くなってきそうな印象を受ける。
この分析手法は、そもそも100年程度までの適用が限界な可能性もあるのではないだろうか。

さて、ではどう考えるのか。

影響が極めて大きく確率が極めて小さいような話に限ればだけど、
予測の限界というのが一番の鍵になるのだろう。
分析手法の限界を含めて、最も精度が悪いところ、
例えば100年に、被害額を掛けたリスクが最も大きいリスクとしてありうるが
正確な数値はよく分からない以上のことは、
実は言えていない状況なのではないだろうか。

不確実性を伴う選択の問題。
それが不可逆性、被害が起きたら戻らない状況を伴うのであれば、
不確実な範囲より安全に予防する、予防原則の出番ではないだろうか。

そんなことをふと考えた。