気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

実務者と研究者

今の自分の立場を見るときっと実務者と研究者の中間にいるのではないかと思う。

実務者からは頭でっかち、机上の空論になってないかと言われ研究者からは、実務も重要だけど、理論もきちんと抑えなさいと言われてしまうのは不徳のいたすところなのだけど、そんな自分でも実務者と研究者の間の齟齬と共通点について思う所がある。

実務者の人と研究者の人というのはレッテル張りで安心している議論でしかなくて、実務者にもピンとキリがあるし、研究者にもピンとキリがあるという点について、お互いに自分の業界は知っていながらも相手の業界が同じ状況なのに気づいていない部分があるのではないだろうか。

自分の見る限りでは、実務者では、自分独りの経験論に対する過信がなくて相対化ができている人は議論がしっかりしている様に思う。

研究者で、実務家にしか発想できないところへのチャンネルを確保して、研究者へと発信できる人は議論がしっかりしている様に思う。

そして、その両者の議論は概ねで言えばかなり近い位置にある。

で、あるにも関わらず、実務者は机上の空論を批判して、研究者は理論欠如の実務を批判する。
非常に空虚な言論空間がそこにはあるように思う。

こんなことは実務者でも研究者でも分かってる人には分かっている気はするけど、その両者の外に居るととても混乱する状況に見える気がする。

そんなことをふと思った。

引越し

どうも、お久しぶりです。

また、長いこと放置していたけど、久しぶりの日記。
気づけばもう半年も放置か。。。

もしかしたら、初めて知る人もいるかも知れないけど、4月から就職して長野県の南の端の方にある飯田市という街に住んでいます。
中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷という場所にある、地方都市です。

来てみて一番の印象は飲み助の土地だなあってことかな。
コンビニやスーパーの酒のコーナーがかつて住んでいた千葉や京都、岡山では見られない面積を占めています。
そして、地ビールやらちょっと良い焼酎やらが置いていて、きっと売上もあるんだろうなあなどと思っています。

もう1つ、面白いのは、焼肉屋の多さ。
京都で言ったら、喫茶店とか、ラーメン屋のレベルで焼肉屋がひしめいている街です。
代わりにラーメン屋や喫茶店は少なくてちょっと残念だけど。
疑問なのは飲んだ後に行く店が、ラーメン屋も牛丼屋もないこと。
「締め」の一杯がない文化なんだろうなあ。
強くはない私にはちょっと厳しい文化なのかなあと思ってたら、「今日は俺、午前中は使い物にならない!!」って宣言する先輩が少なからず居たりして、お国柄をちょっと感じます(笑)

まあ、そんなこんなで住めば都。

一番良いのは、昼間家に居ない分には、今のところ全くエアコンが必要だと思えないことかな。
それどころか、酔っ払って裸で寝ると、この時期でもちょっと風邪を引きそうになるよ。

高度があるんだろうなあ、きっと。

まあ、そんなこんなで、今のところは元気にやっています。
仕事はようやく慣れてきたところ。

さて、これから何を仕掛けることが出来るのか。
少しは余裕が出てきたから、面白いことやりたいなあ。

才能

なんだか目が冴えて眠れないので、ちょっと思ってたことを文章にしてみる。

最近、読んだ本で日本のスポーツ選手には4〜5月くらいの生まれが多くの、ヨーロッパでは10月辺りが多いというようなことを書いていた。

何故か?
才能の問題と考えるには無理があるだろう。
これは競争相手と、スタートラインが違うからだ。
3月生まれとはほとんど1年分、体格等が違う。特に小さい頃にはこれは大きく、試合でレギュラーになりやすい。そして経験を沢山、積めるのだ。

さて、話は少し変わるが、徒競走の途中を目撃したとき、二人の走ってるスピードが明らかに違ったら、どう思うだろうか。きっと速い方が能力があると思うのではないだろうか。
しかし、実際はハンディで片方がスピードにのってスタートし、もう片方が止まった状態からスタートしているかも知れない。本当に速いのは一見遅いほうかもしれない。

これらの話は社会での競争の多くの場面にも当てはまるように思う。
社会での競争は普通、スタートラインを揃えたりしないし、そもそも出来ないことが多い。

だから、あなたの横にたまたまいる相手が、あなたより明らかに出来る様に見えるからと言って、才能が違うと考えるのは短絡というものだろう。

その相手とあなたでは生まれたタイミングも違えば、今までやってきたことも全然違う。
スタートラインを揃えていないのだから、その競争では能力などそもそも計れはしないのだ。

ならば、どうするのか。
きっと負けてると感じても、自分が勝負したいと感じるなら、おもいっきり走ると良いのだろう。
そうすれば、自分の持つ関心は、たいていはどこかで繋がってるから、いづれ似たようなとこで勝負するときが来る可能性は高いだろう。
その時には、今度は自分がスピードにのってスタート出来ることになるはずである。

今、負けていることを自分に才能がないと捉えるなかれ。
あなたが勝負したい分野なら、ただ積み重ねるのみであろう。

そうやって、私は自分を励ましているよって、話でした。

随分、青臭い話だけど、きっといつの間にか見えなくなってる人もいるんじゃないかな、なんて。

久しぶりの日記

お久しぶりです。

ツイッターを使いだしてから、使い分けがまだ確立せず、すっかり放置気味になっていますが、たまには更新を。

寒い日が続いていますが、皆さんお元気でしょうか。
私はプレハブ並の素晴らしい防寒性能の家に負けないように、日々工夫を凝らして生活しています。焼け石に水を一生懸命かけてる感は多々ありつつも、逃げちゃ駄目だ、というか逃げ場がそもそもないので。

さて、近況を幾つか。

年末年始は久しぶりに実家に帰りました。
年末は我が弟も出演している某フェスに初の3日間参戦しました。
御一人様で行ってきた訳ですが、
音楽の趣味の合う友人と一緒〉御一人様〉気は合うけど余り趣味の合わない友人と一緒
という順に楽しいと言うことを学びました。
比較が野郎とばかりなのが哀しい話ですが。

一人フェスも、自由気ままで乙なものと本気で思ってしまいました。
普段は割りと寂しがりだけど、音楽のそして祝祭の雰囲気があれば、他はなくても大丈夫なやうです。

今回の自分的MVPはテナーでした。30日のトリ、脂の乗っている最高のバンドの時間でした。
他ではチャット、ボーディーズ、ハイエイタス、ジプタ辺りが特に良かったです。

年始には卒業から数えること15年となる中学校の同窓会がありました。
みんな本当に懐かしくて凄く素晴らしい時間でした。こうやって久しぶりに会って、笑い合える友人がたくさんいることって良いことだよね。

自分が過ごした時間が素晴らしかったからこうやって笑い合えるんだろうなぁ、なんて。

最近、ストレスフルな人間関係に疲れて、所属するコミュニティのうち一つを、バッサリと切り捨てていて、結果としてはとても落ち着いたけれど、これで良かったのだろうかなどと思い悩むとこもあったので、なんだかとても癒されました。

別に、特段そこにいた誰が嫌いとか言うわけではなかったけど、ただ居心地が悪くて疲れたので、離れて一人で居ることを選択したんだよね。
結果としては日々の生活がとても楽しめる状態に戻ったから正解なんだろうけど、言葉に出来ない何かな、悔いみたいなものが残るみたいなね。
まぁ、もう済んだことだけど。

そういえば最近、森見登見彦さんの小説にはまっています。
あぁ、我が黒髪の乙女は、何処にやとのたまう程度にはまり中です。
ユーモラスな方なんだろうね、きっと。

彼の作家の様なユーモアとは行かずとも、味のある文章を書ける様に。
時々、練習がてらにブログを書くようにしようかなどと思案中。
まぁ予定は未定だけどね。
ではでは、またいずれ。

酒記

お酒を飲みながら、とても好きな佐藤可士和さんの本を読む。
ふと、人間、自分の嫌いなものの分析は余りしないという一節が目に留まる。
文脈は、嫌いな理由を分析して、それを好きになるためにはとつづく・・・。

嫌いなもの。”者”が真っ先に浮かぶ。
きっとそれは腹の底でこちらを見下す人。特に、嫌いなくせに、表面上はそれを隠そうとする人。

なぜ、嫌いなのか。
きっと自分は人の悪意には過剰な反応をしている。

そして、もう一つ。

きっと自分が嫌いな人は、悪意の隠せない不器用な人だ。
悪意は気づかなければ、ないのと同じこと。
それが分かっていても、気づいたものには反応してしまう。

私はとても気難しい人だと思う。
自分の中には、とても短期な”ケダモノ”が棲んでいる。
気づいてから二十と数年。こいつが嫌だと思い続けて来た。
数ヶ月の間は凹む程度の、痛い目に遭うことも何度もあった。
でも、相変わらず自分の中に居る。
少しは付き合い方が分かって、マシになったかも知れない。
でも、きっと周りからみたら大して変わってない。

人は変わる。私はこういう話にはとても懐疑的だ。
自分のことをみることには自信は持てないけれど、周りの人間をみる限り、出会って二十年程度で変わった人は知らない。

変化はもちろん、誰に限らず大なり小なりある。
だが、元々持っていないものに変わることはほとんどない。
自分の中のどの要素が強く表にでるのか。
そういうことはあっても、持っている要素は変わらない。

そして、一見、表に出てこない人間性も文脈を知る人間にはすぐ分かる。
そうじゃない人間にもきっといずれ透けて見えてくる。

だから、自分の持っているものから始めるしかない。

これは、ただの諦め。

それと同時にそこからスタートするしかないという話だ。

私は自分の手札を見つめることが、ポジティブのスタードだと信じている。
それは同時に手札と向き合えないうちは、ポジティブとは呼べないと信じているということだ。

幸いにして私にも友達がたくさん居る。
心の底から尊敬する大好きな友人達だ。

きっと、こんな文章を書いて、最後まで読んでくれる人は、私のことが好きな人と嫌いな人だろう。
あるいは、そのいづれかになろうとしている人。

少し話はそれるが、大好きな友人達へ。
あなたが居るから、私は私で留まれる。
本当に感謝している。いつもありがとう。
あなたが人間をポジティブにみてくれることで、私は本当に救われている。

私はとても我がままな良い人のメッセージによく共感する。
人間としてとても矛盾している、我がままな良い人。
でも人間は矛盾したものだ。

良い人であろうとすることで、良い人になれるほど単純に出来ていない。

自分の本質はどうしたってでてしまう。
特に自分が怒ったとき、弱ったときに。

それでも良い人でありたい。
それだからこそ、良い人でありたい。
私が尊敬するあなたの様に。

きっとそうやって我がままな良い人は出来上がる。

そういう人は基本的には嫌な奴だ。

嫌われることの方が、好かれることの倍くらいは多いんじゃないだろうか。
でも、好いてくれる友人にとっては良い人なのかも知れない。

深く人を知ろうとしてくれる人。
そういう人はきっと人が好きなんだろう。

あるいは、人のどうしようもなさを良く知っている人なのかもしれない。

いづれにせよ、私の友人は付き合いの浅い人と、私の尊敬する人がほとんどだ。

裏を返せば、一定の人は付き合いが深くなるにつれて、離れていく。
めんどくさくなるんだろう、きっと。

人は自分が嫌いな理由はあまり考えない。
含蓄のある言葉だ。

これは私の妄想、願望かも知れないが、私には友人は少ないが、”親友”は多い。
強調するのは少し照れくさいが、親友の意味が少し薄くなっているように感じるいま、どう表現して良いのかが分からない。正直なところを躊躇いなく話せる相手という意味だ。

お互いにバレてる相手なことも多いんだろう、きっと。

善人をとても信じているし、とても懐疑的だ。
少ない、けれど居るという意味で。

自分は自分の嫌いなものあまり分析しない。
その、例外は自分の嫌いな部分かも知れない。

自分が自分を嫌いな理由ならいくらでも喋れる。
でも、そのほとんどに意味はない。
嫌ったから変えられるのは、本当に一部だから。

自分の良い部分の延ばすことは出来る。
でも、嫌いな部分を消すこと。
これは出来るのだろうか?

自分に何度、どんなに絶望しても、そこにいる自分から始めるしかない。
だから、人はもがく。
私はそんなもがく人が好きだ。
良い人と同じくらい。

もがくしかない。

もがくしかない。

Justice

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

マイケル・サンデル著、「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」(原題「Justice: What's the Right Thing to Do?」)を読んだ。

眠れない夜。想いを書きとめるノートとしてのブログ。
考えながらまとめる散文ですが、興味のある方はまた小難しく変なこと考えてるよと、おつきあいを。

あ、ネタばれも書くので注意してください。

NHKで話題になったハーバード大学の講義を元にした著作。
現代までの政治哲学を、正義を巡る3つの解釈に分類し、事例を交えながら説明していく。

事例はいわゆる極論が多い。
しかし、読んでいくと、哲学的な問いの本質を考える時に、極端な事例の持つ問題喚起力、説得力は確かに支持できる。
詳細な内容はとても面白い本なので、興味のある方は是非、自分で読んで頂きたい。


3つの分類とは

1つ目は功利主義の正義、最大多数の最大幸福というやつである。合理的に幸福を計算し、その最大化を図る思想の系譜は経済学的でもあり、興味深い。

2つめは自由を正義とする立場。互いの自由を侵害しない限りにおいて、自由そして、人権を擁護する立場。最も純粋な一派がリバタリアンと呼ばれる。
ロールズの、自分が社会的にどういう立場の人間か、例えば、金持ちか、貧乏か分からない、仮想状況で合意によりルールをつくると思想実験で導かれる正義である。
合理的に導かれる、権利を擁護する立場といったところだろうか。
私見では、自分を含めた現在の若い人の発想はこの立場にかなり近いように思う。

そして、3つ目は美徳。道徳的、宗教的、あるいは社会的正義が先に存在し、そこを目指すことを正義とみる立場。
おそらく、古い世代の発想とみられがちな立場である。

著者の立場は3番目とのことである。
もちろん全てを含んでいるのだが、2番と3番の中間、3番寄りという面が強いように見える。
著者はアメリカ人なので、日本人の私からみると2番寄りに見えるという話なのかもしれない。

著者は前述の自由を主張するリバタリアンと対立した、コミュニタリアンと呼ばれる一派の主要論者で、負荷を持った個人が、自分の物語を選択するという哲学観を持っている。

負荷を持った個人とは、集団に属している個人のことであり、集団に属することで、利益をもらっているから、その分、責任も背負うということだ。
例えば、それは、仲間の集団が持っている優位性であり、仲間の集団が過去に犯した過ちの責任である。
著書の中では日本人として産まれた利益とアジアに対する戦争責任が例に出ている。

この負荷を持った個人が、折々の選択の機会に、所属する集団を選ぶ存在、自分の生きる物語を選ぶ存在として描かれる人間観。

中々に説得力のある人間観である。

ここで、ふと考えてみる。
戦中世代は祖父の世代にあたる私。
所謂ニュータウン育ち、核家族化していた、私の故郷では、祖父母と同居する人間は圧倒的に少数派だった。
私たちの育った周りで、戦争をリアルな体験談として聞いたことのある人間はきっと少数派だろう。

私自身も、生の声として戦争体験を聞いたことがない。

私に戦争責任は存在するのだろうか。

著者の言うように、日本人に産まれたことでの利益は確かに受けている。

しかし、ここで疑問に思うのは、歴史の中で、一定のまとまりを持った集団というのは、なんであれ、あるときは加害者であって、ある時は被害者であるというのが常なのではないだろうか。

私が背負うべき集団の責任はどこまで遡るべきなのだろうか。

また、たまたま近年に過ちを犯した集団の、現在の世代が背負うべきものが、大昔に過ちを犯した集団現在の世代より重い理由はなんだろうか。

得ている利益が違う?
それが理由ならば、その利益は戦争がどこまでリンクしているのだろうか。

著者の主張には、集団の持つ責任に時間が経過した時、どこまでを現在と強くつながっている、とするのかという線引き問題が残っている気がする。
歴史を無限に遡り、その責任を全てという議論だとしても、歴史は全ては遡れないので疑問が残る。

もちろん、著者も単純に存在するとは言ってはいない。
が、条件によってはしうると少しぼかした書き方をしている。


解決すべき問題は残っているものの、著者の主張には一定の共感を覚える。
おそらく、それは私が人間を集団の一部を生きる生き物として捉えているからかもしれない。

私が不勉強なだけかも知れないが、自由主義、あるいは功利主義的な人間観というのは、個人で生きる生物としての人間をベースにした哲学ではないかと常々感じていた。
個人というのは、もちろん、社会に属していないという意味ではなくて、単体で完成した生物としての人間として。単独で狩りをする生き物を思い浮かべてもらいたい。

私は人間はそういう風に出来てはいないのではないかというところに、強い違和感を覚えている。
私の知る限り人間は群れで行動し、狩り、採集をする群体としての生き物である。
個人という概念は、自立やアイデンティティというものとともに、近代の日本に輸入された概念であったかと思うが、これはキリスト教とつながった、神の元での平等な個人という概念をもとにしている、いや、記憶が曖昧だ。。いた、はず。

このヨーロッパ的な近代人の概念は、神を持たない私にはきっと合っていない気がする。
私にはこの個人や自立は非常にきつい。

私のみる限りでは個人や自立の問題にぶつからない人は、既に何らかの安定した集団に居る人や、振る舞い、空気を読む、仮面の掛け替え、そういった能力に長けていて、一時的に集団に入り込める人である。
逆に、そういう問題にぶつかる人は、自分のルーツの集団、家族との関係になんらかのトラブルを抱えている人が多いように感じる。

幸運にも集団に属している人は余り対面しないで済む個人、自立、アイデンティティ問題。
これは、対面した人にとってはとても消耗する問題である。

この根底にあるのが、ロールズ的な西洋的個人を踏まえた、正義概念であるように感じる。
そして、それに対するアンチテーゼとして、著者、サンデル集団主義が私には受け入れやすかった。

解釈としてはかなり邪道な部類であるのかも知れない。
しかし、負荷を背負った個人が、物語を選択するという人生観は、小さい頃から無意識的に身につけたロールズ的な正義観と、集団としての生き物として人間を捉える私の感性の間の衝突に少し光明をもたらすように感じる。

そのまま、すとんとは落ちないが、いきなりデュルケーム的な集合表象(集団のしきたりや慣習の支配)を突きつけられると、それはそれで、う〜ん、それもちょっとなあ、と納得できない私には新しいスタートラインのヒントになった一冊かもしれない。

貨幣換算しにくい部分を扱う、政治・経済学の学徒としては、こういう政治哲学的話題はとても参考に、そして刺激になる。

理系的な、生物学的人間と、文系的、哲学的人間。
そのバランスの取れた哲学というのを考えるとどうなるのだろうか。
経済学に行動経済学が現れたような変化は既に政治哲学には起こっているのだろうか。

只ほど・・・

ツイッターから。
RT @bunkatsushin 音楽業界の現状に対する現役アーティストの生の声。安藤裕子さんのブログhttp://bit.ly/9iUkrU

たくさんのものが無料で手に入るようになり、とても便利になったと思う。

便利なものだから使う。素朴にはとても正しいけど、少し注意が必要だ。

なぜ、これが無料で手に入るのか。
なぜ、これが安く手に入るのか。

全部を知ることは出来ない。
けど、ちょっと考えながら自分が使うものは選びたい。

Youtubeはとても便利。
でも、視聴機の変わりとして使うのと、メインのプレーヤーで使うのでは意味が違う。

メインのプレーヤーとして使ってしまうと、制作者にお金が入らなくなる。
この行為は、ほとんど万引きと変わりがないのではないだろうか。

リスクの少ない万引き。
規範性を無視して、短期的な合理性を考えるならやるべきかもしれないが、そこには長期的な崩壊が透けて見える。
あなたは本当に万引きをしないといけない程、お金に困っているのだろうか?
Yesであるならば、仕方がないのかもしれない。

でも、Noであるならば、これは恥知らずな行為かも知らない。

少し考えて欲しい。

気に入った音楽、映画、ゲーム、そういったものを継続的に手に入れたいなら、制作者にお金が入らない手段で手に入れてはいけないのではないかと私は思う。