芸術祭と回遊性、もう一つの側面
私はなぜか写真展の方が良いと感じた
この春、京都では2つの芸術祭が開催されていた。
両方を周ってみて感じたこと、しばらくもやもやしていたことがまだもやもやしているので書いてみようと思う。
まず、私の基本的なスタンスを言うと、現代アートの方が、写真展よりも好きなことが多い。
しかし、今回、両方を周った感想としては、KYOTOGRAPHIEの方が良かったと感じた。
それがなぜかというのを、少し考えてみたい。
恐らくだけど、それは回遊性の違いにあったのだろうと思う。
現代アートフェスと写真展はどう違うのか
何故そう思うのかを説明するため、まずは、現代芸術と写真がどう違うものなのかを説明してみたい。
これは、アートに詳しい人の受け売りだが、現代アートの発展には、写真技術の登場が大きな影響を与えているそうだ。
写真技術以前の、アートは現実をいかに再現するかというところに凄みがあったと言う。
しかし、写真技術の出現で、そのアーティストのアイデンティティは大きな挑戦を受けた。
技術的に完璧にできてしまうものがあらわてたことで、完璧さを求める競争軸自体の価値が揺らいでしまった。
実際にこの時代に多くの画家が、写真家へと転職をしたと言う。
少し前の例で言えば、会計ソフトが出現したことで、ミスをほとんどしない経理のベテランスタッフが挑戦を受けた状況に似ている。
その結果、アーティストは競争軸をずらすことを選択する。
それが印象派として知られる集団の出現だ。
写真では出来ないことの追求。
印象派に始まったこの技術的な再現性との対決の流れと考えると、それがピカソ等に行き、今、現代アートがやろうとしている挑戦は理解しやすいように思う。
私の理解で端的にいうのであれば、科学的には理解しきれていない人間性というものが表出する瞬間を、どうにか意図的に作り出す営みが現代アートだと思う。
だから現代アートは極めて非日常だったり、一見、日常に見える中の非日常というアプローチを採用するのだと思う。
私には理解できない感情の揺さぶりを受けるという点、そして、多くの作品は作品意図として、なぜ揺さぶれるのかの仮説を提示してくれるというのが、私が現代アートの好きな点だ。
さて、この観点でアートを捉えている点から言えば、私は間違いなくPARASOPHIA贔屓の人間だと思う。
写真展も私の世界を拡げてくれるという点では、好きだが、これはあくまで私の知らない現実を教えてくれるという点で、現代アートと較べると、学問と近い営みにあるものだと思う。
好きではあるけれど、現代アートのもたらす揺さぶりや問いと較べてしまえば好みではない。
現代アートフェスのもう一つの側面
さて、ここまでは、現代アートフェスと写真展の違いを私なりに話してきた。
ここからは、現代アートフェスを私が好きなもう一つの理由を説明してみたいと思う。
私は自転車旅や登山を趣味としている。
おそらくはこれが、現代アートフェス好きなもう一つの理由だと思う。
現代アートのフェスは、一つのスローな旅として成立している。
例えば、昨年の春に周った瀬戸内芸術祭の小豆島、豊島で言えば、私は、アートを楽しむのと同時に、自分の知らない風土を楽しんでいたし、旅先での出会いを楽しんでいた。
それは現地の料理であり、ゲストハウスに泊まった夜の、全く違う世界の住人の語る日常の面白さだ。
その両者が楽しめるのが私にとっての現代アートフェスだ。
旅好きの人間として、旅先で見る新鮮な感動に身を任せる楽しみ。
そのひとつのコンテンツとして現代アートフェスを楽しんでいたというのが私の姿だ。
多分、こういうファン層が一定数いるので、現代アートフェスは地域起こし的な文脈として扱われることがあるのだと思う。
実際の地域起こしへの効果としてはアーティストが地域に入ること自体の効果が大きいように考えてるが、その話はここでは置いておく。
その点から言うと、PARASOPHIAとKYOTOGRAPHIEはどちらも長く住んでる居住地での芸術祭なので少し期待値が低かったというのが本音のところだ。
なぜ、PARASOPHIAには惹かれなかったのか
しかし、今回、私は、KYOTOGRAPHIEの方が好ましく感じた。
それはなぜだろうか。
両者は比較しやすい日程だったこと、そして、KYOTOGRAPHIEが地域回遊型を選択したのに対し、PARASOPHIAが拠点芸術施設集中型を選択したため、私はアートフェスが地域巡りであることのもう一つの効果に気づくことになったように思う。
それは、余白/行間の重要性だ。
現代アートは技術との対決を背景としているため、先鋭的で多様性に富んだアイディアを提示している。
今回感じたのは、拠点集中型にすると、この魅力が裏目にでるという点だ。
PARASOPHIAのアイディアの洪水には、単純に疲れてしまった。
それは、極彩色をずっと見せられると眼が疲れてくるような感じだ。
私には、刺激が強すぎて楽しめなかったように思う。
1週間以上が経過して、ようやく、私はどの作品が気に入っていたのかを認識した。
余談だが、一番気に入ったのは、漂白された裁判所だ。
今まで、慣れていた現代アートフェスでは、例外的な場所を除き、1箇所1アーティストが原則だった。
その移動の最中、次のアーティストに思いを馳せるか、さっき見た作品の余韻に浸るか。
そんな違いはあれど、移動時間は余白として重要な役割を果たしていたのだと思う。
その余白があって、次の刺激にある程度、ニュートラルに向かい合うことができる。
今回、KYOTOGRAPHIが、比較的多彩な写真家を揃えていたのに、疲れずに楽しめた理由を考えると、おそらくは余白の差は大きいのだろうと思う。
後になって個別の作品で比較するとPARASOPHIAの方が好みだったように思う。
そのために、PARASOPHIAを今ひとつ楽しめなかったのがとても惜しいと感じた。
それに京都は、KYOTOGRAPHIEがそれを上手く利用したように、非日常的な空間の奥行きを持った街だ。
また、芸大の多い街でもある。
他の街にはないアートスペースのストックがある。
そういう点でもPARASOPHIAはもっと魅力的な形で提示できるように感じた。
京都らしい町衆のお祭りというコンセプトがあるのだから、もっと町衆の場で仕掛けをしてもらえると、きっともっと多くの人を惹きつけることができる良いフェスにできる気がする。
そんなことをもやもやと思った。