気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

ネトウヨとお花畑の不毛な議論?

不毛な議論が多いように見える

原発集団的自衛権周りの話を見ていると、感情的な対立が先行し、議論が不毛に見える。

不毛なことを言うと感じる人たちの議論は、賛成反対を問わず、

  1. 未来の想定がかなり入った事例をあげて、大変なことになるぞという恐怖心をあおる。
  2. SNS等を通じて、仲間感覚と敵への対立感情を強化していく。

という構図に見える。

 

それに対してきちんと議論出来ないのという疑問は当然出てくる。

この意見で注意してほしいのは、どちらの方も比較的リベラルな発言をしている方だが、日本的リベラルの状況を「お花畑」と形容していることだ。

この「お花畑」の逆が、保守的な人からも批判される現在の首相みたいな「ネトウヨ(素朴な軍事マニア)」だろう。

 

気がつくと、「ネトウヨ」VS「お花畑」なんて構図に回収されて、大事な問題が議論されないままになる。

そして、外からはうっとうしいから喧嘩すんなよ、みたいなムードが漂うなんてことになりかねない。

 

日本的保守派と改革派、日本的ウヨクとサヨク、保守とリベラルの違い

さて、この対立の図式はどんなだろうか。

 

保守派、改革派、日本的ウヨクとサヨクの違いとは何だろうか。

 

私が思うには、 

保守派は、今あるものの長所に着眼し、軽々と変えるべきじゃないと主張する。

改革派は、今あるものの短所に着眼し、改善すべきだと主張する。

日本的ウヨクは、強者と強者の対立を想定し、強者たれと弱者を批判する。

日本的サヨクは、強者と弱者の対立を想定し、弱者に配慮せよと強者を批判する。

 

この観点からみると、

安部政権、「ネトウヨ」は、改革派ウヨク

共産党社民党のような伝統的野党、「お花畑」は、保守派サヨク

となるのだろう。とても言葉遊び的存在だ。

 

海外の保守とリベラルの対立にはもう少し違ったニュアンスも入ってくる。

それは、サンデルの「共同体の価値観」とロールズの「個人の自由」の対立だ。

  

ただし、これの軸には少し注意が必要で、宮台真司によると、

 ヨーロッパでは、保守=伝統的=共同体的、そこからの改革(リベラル)=個人の自由

なのに対して

 アメリカでは、保守=伝統的=個人の自由、そこからの改革(リベラル)=共同体的

という対応のねじれがあるという。

 

日本の議論を見ると、おそらく、共同体の価値観と個人の自由の対立が、保守と改革とかウヨクとサヨクとは対応しない別の軸になっている。

 保守派で共同体的な人、保守派で個人の自由な人

 改革派で共同体的な人、改革派で個人の自由な人

更にはそれぞれに日本的ウヨク、サヨクの立場を持つ人もいる。

 

ネトウヨ」対「お花畑」では、単純化しすぎている。

例えば私なら、改革派・日本的サヨク的・少し共同体的だ。

 

これだけ立場が複雑なのに、単純化するのは、味方ラベルの貼付けも含めて

相手の立場を尊重していないのではという違和感がある。

 

複雑に違った立場に同調圧力をかけずに、きちんと議論できないのだろうか。

 

 経済成長に批判的+技術発展に批判的=「お花畑」?

さて、経済成長への批判や技術発展への批判については、

「お花畑」というラベルが貼られた人の典型とされている。

その批判と反論は、宗教論争の様相を呈している様に見えるので

議論を少しでも建設的にする為に、根拠のある議論として主張してみよう。

 

経済成長への批判と技術発展への批判は、構造がかなり似ている。

 

ただ注意して欲しいのは、批判する人でも、議論のきちんとしている人の言うことを聞くと、経済成長・技術発展のもたらす果実には、非常にポジティブな点だ。

 

”経済成長により、雇用が不足すれば、おのずとブラック企業問題は改善する。”

”貧困だって、わけるパイが増えればもっと楽に改善出来る。”

 

きっとそうだろう。ここまでは実は共有しているのだ。

 

しかし、次の3点は考慮が必要だ。

  1. 経済成長により改善した問題は不況の時に再発しないのだろうか?現代の不況は、日本発でおこるものばかりではなくコントロール可能とは言いがたい。
  2. 高度成長期に回ったシステムを回すのに必要な成長率はどのくらいだろうか。日本型システムは、先進国的な低成長期に回った実績を持たないのでは。
  3. 成長は、フローで計られるが、ストックの増減はどうだろうか。環境問題を見ていると、成長への圧力により様々な負のストックの蓄積が示唆される。水漏れを修理する当面の間、水圧を弱めるという選択肢は考慮に値しないのだろうか。

これらを考慮すべきというメッセージは、結果的に経済発展への批判になる。

 

”技術発展により、環境問題を始めとした多くの問題は改善する。”

 

きっと貢献するだろう。ここまでは共有している。

 

しかし。技術発展は、あまりにも予測不能だ。

過去に描かれた21世紀の像はどれだけ現在の近いのだろうか。

次のような戦略は考慮に値しないだろうか。

  1. 当面は現在で、利用可能な技術の適用での解決を目指す。
  2. 技術発展が起きたら、その時点から改めて利用可能な技術でルートを探す。

この議論も結果としては技術発展に頼るなというメッセージになる。

 

そして重要な問題は、政治的な関心のクラウディングアウトだ。

多くの話題が、同時に多くの人の関心を引くということは一般的には起こらないようだ。

問題になったときに関心に上り、別の問題が起これば関心は移り行く。

 

不況時に顕在化する問題は、経済発展論にクラウディングアウトされがちだ。

技術発展論は、現状で適用できる技術の適用をクラウディングアウトすることがある。

 

問題は、経済発展批判ではないし、技術発展批判でもない。

経済発展優先論や技術発展優先論による、他の選択肢のクラウディングアウトにある。

 

どうだろうか。お花の咲いた議論だろうか。

違う選択肢もきちんと考慮することが良いのではないかと私はおもうのだけれど。