気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

価値観、常識、正しいということと多様性

今までとはかなり毛色の違う人と接する事になってもうすぐ3年。

価値観、常識、正しいということについて、

自分の持つ価値観の、今のコミュニティへの異質さを感じたので書いてみる。

 

個人的な話で言えば、「正しいということ、されること」、

あるいは「常識」みたいなものを全く信じていない。

 

語弊がないように言うと、

「正しいとされること」や「常識とされること」が、

「正しい≒合理的」とは、信じてはいない。

「そう言われているもの」は、玉石混淆で、

合理的なものもあれば、迷信の類いも多々あると思ってる。

 

そういう価値観からすると、

「正しいもの」や「常識」を主張されても、眉唾でしかない。

 

人間は基本的にはそれぞれの「エゴ」を

「正しい」と主張しているだけだと思っている。

 

そうすることになっている習慣を無意味に乱す必要がないときは、

「常識」に従えばよいくらいに思っていし、

逆に言えば、乱す理由があるときには、

「常識」にほとんど興味がなく、考慮すべき障害くらいに思っている。

 

先日、自分の言うことは、エゴでしかない

(同様に他人の言うこともエゴと捉えているという文脈で)という、

自分の価値観からしたら、当たり前でしかないことを言ったら、

凄く意外そうな反応と、納得したような反応をされた。

こちらは、逆にその反応をみて、

正しいものを信じている人もいることに思い当たり意外な思いがした。

 

私の理解では、正しいものというのは、

口伝で伝わっていて、正しいとされていることが正しい以上の理由は持っていない。

ただ、それが、年月を経ても正しいとされ続けている場合には、

何らかの合理性がある可能性が高いと考えているので、敬意を払う必要がある。

そして、調べてみると面白そうだという感覚を持っている。

 

それはつまり、たかだか、数世代が正しいとした価値観なんて、

当たるも八卦だと思っているので、

「何十歳上の人生の先輩が言っている」なんて言うソースは全く信頼してなく、

伝承なんかは、ある程度信頼している。

“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”という話は、

結構、言い得て妙だよねくらいの感じ。

 

合理性があると判断できれば、従うし、

合理性がなくて「常識」を乱す個人的必要のある話であれば、

「常識」なんてほとんど考慮にはいれてない。

 

そして、ここで、合理性を基準にしているのは、

自分にとっては十分に理由のあることだが、

それもただの自分の価値観(エゴ)であり、

ひとそれぞれに気持ちの良い基準(例えば「常識」)

というエゴを持っていると思っている。

 

だから、チーム(コミュニティ)を運営するには、

エゴの調整をする(常識を摺り合わせる)ことがかなり重要で、

それをやらないと、上手く廻るものも廻らないだろうと思っている。

 

もちろん、この考え方は、論理的には、

元の元を疑えば全てが疑えてしまうという、

所謂無限再帰性のワナ、底の抜けた社会のワナに嵌るのだけど、

人間には、幸いにして共有している本能がある以上を、

再帰性は感情ベースには無限にならないと直感的にだが考えている。

 

言い換えると、本能、感情ラインをベースに話し合えば、

十分にルールは作れるのではないかと思っている。

 

なので、重要なのは、ルールづくりという価値観である。

 

私にとって、多様性は、心配事ではなく、

見過ごしていたものに気づく、進歩のきっかけになる、良いものだと考えていた。

なので、価値観が遠い友人は、価値観が近い友人と同様に得難い友人だと思っていた。

 

しかし、「正しいこと」のある価値観にとって多様性は、

「正しいこと」を脅かす脅威であるようだ。

 

この2つの価値観(「エゴ」)がぶつかる場合、どちらが合理的なのだろうか。

 

私の考えでは、それはどちらも正しい。

ただ、どちらかが有利な状況があるだけである。

 

安定した状況では、多様性が少なく「正しいこと」の価値観は、

無駄な議論や意見相違のもたらすデメリットが少ない点で優位だろう。

変化する状況に対応するには、多様性のある状況の方が、

新しい状況に対応した進歩を生み出し易いという点で優位なのだと考えている。

 

なので私は、現在に対する自分の観測が、

変化する状況であるので、多様性が優位だと考えている。

 

まあ、そうじゃない時代でも、私は多様性を支持する気がするので、

今の時代でツイてたかもってな話だけどね。