気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

安保法案について、賛成派と反対派をみて感じたこと

安保法案関連の話題が盛り上がってる。

私の周りには、賛成派の人、反対派の人、それぞれ顔が見えて、どういう人かわかる人達がいる。

 

私は反対派だけど、どちらも私と考えが近いか遠いかの差こそあれ、理解できる考えだと思っている。

 

その両者が周りにいて、見える人にとっては色々な考え方をみながら自分のスタンスを決めれば良い話だし、片側ばかり見ている人は、相手を理解不能な生物と単純に捉えずに、もう少し何を思っているのかを見てみたほうが良いのではと思う。

 

さて、繰り返し、言っている話だが、今回の話は、賛成派と反対派の議論がかみ合っていない。

それによりお互いに、不信感を募らせ、相手が意味不明なことを言っていると思ってしまいがちではないかと思っている。

 

そこの整理を試みたい。

 

 

 

デモはありかなしか。それが論点で良いの?

 

まず、大きな論点としてデモの意味についての議論が、かみ合っていないように見える。

 

賛成派の人達の話でよくでるのは、下記の2点。

1 デモは少数派の意思表明で、それによって多数派の意思表明である選挙の結果選ばれた政権の行動が変わるのはおかしい。

2 デモのような暴力で物事を変えるのはおかしい。都合が良い時は、平和と言いながら話し合いではない。

 

それに対する反対派には私の見立てでは2種類の人がいる。

反対派Aの話でよく出るのは下記の通り。

1 政権を選ぶのは国民。主権者は国民だ。選んだ政権が道を間違えれば、それを正すのも国民の義務だ。

2 デモは、政権が間違えたのを正すための正統な手段だ。そこではどれだけ本気かを示すことが重要だ。

 

反対派Bの話でよく出るのは下記の通り。

1 選挙はたくさんの論点を合わせて選んでいて、個別の論点について話をしていない。だから、個別の論点については意思表明を別途することに意味がある。

2 昔のデモと最近のデモは違う。暴力に訴えて、警察と揉める昔ながらのデモ参加者には参加して欲しくない。やりたいことは意思を表示するだけだ。

 

私の立場は反対派Bだ。反対派Aの考えは私には正直よく分からないので、置いておかせてもらいたい。

分からないのになぜあえて書いたかと言えば、賛成派の人には、同じ反対派に見えてるのではと感じたからだ。

賛否で言えば同じだが、考え方は大きく違う人達がいると私は見ている。

ちなみに、私の周りでは、反対派Aはどちらかというとご年配中心に見えるし、反対派Bは若い世代が中心に見える。

 

さて、反対派Bと賛成派の対立の方を対象に話を進めていく。

私の見立てでは、1の対立は両方とも、自分たちが多数派だと考えていることで起きている。

私の考えでは、デモはありだ。但し、それですぐに物事が変わるかは分からないというスタンスでやるべきだと思っている。

 

選挙は多数の論点を合わせて行うので個別の論点について意思表示をする。

これを受けて、政権が考えを変えるか変えないかは政権の自由だ。

 

近年の例で言えば、ドイツの脱原発を思い出して欲しい。

ドイツには、原発推進よりのスタンスの政党と脱原発寄りのスタンスの政党という2つの大きな政党がある。

福島の事故後に脱原発を決めたのは、2つの内、原発推進よりの政党だ。

 現在、政権にある政党でも世論を無視すれば次の選挙が危うい。

そうなれば、スタンスを変更するということは起こり得るし、戦略的行動は単純に非難すべき話でもない。

 

これを狙ってデモという意思表示をする。

それは大いにありだろう。

 

それを受けた政権は、

1 これが世論の多数派で、選挙結果を左右しうるトピックだとみてスタンスを変える。

2 これは世論の少数派だとみる、もしくは、選挙結果を左右するトピックではないとみて、スタンスを変えない。

という選択肢から、自分たちのスタンスを選ぶことになる。

 

今回、政権が選んだのは2だ。

そうなると、

1 反対派が世論の多数派で、選挙結果を左右するトピックだったのであれば、次の選挙で、政権党は危うくなるだろう。

2 そうでなければ、政権党は戦略的に正しい選択をしたのだろう。

結果は次の選挙でわかる話であり、それまでに結果の出る話ではない。

 

私が言いたいのは、デモ自体がありなのか、なしなのかという対立に見られがちだけど、多数派をどう見るかという推測が違っていることによって起こっている対立じゃないのかってことだ。

賛成派の人は、デモに行っている人を野党に投票した人だと思い込んでる。

反対派の人は、デモに行っている人に与党にと投票した人がかなりいると思い込んでる。

そしてその結果は次の選挙が来るまで分からないような話なのだ。

お互いの推測が違うだけで、筋は通っている。

結果も時機にわかる。喧嘩するような話じゃない。

 

解釈改憲が問題なのか、国民の代表者が判断してないのが問題なのか

次に解釈改憲について、賛成派と反対派の議論はかみ合っていない。

 

この話については、安保法案の賛成派は、国民の代表者でもない内閣法制局が判断していることを問題視している。

それに対して、反対派は、誰が判断しているでなく、一度判断されたものを変えて良いのかを問題にしている。

 

私は、内閣法制局が判断することは問題だと思っているし、例え問題のある判断でも一度判断されたものは変えるべきではないと思っている。

 

内閣法制局が判断することについては、私も、反対派の中のおそらくは多くの人も、正統性に疑問を感じている様に思う。

なので、ここは実は対立していないと思っている。

制度としては、形式上ではあれ、国民審査を受けている最高裁が判断をするというシステムに変えた方が良いのではないかと思う。

もちろん、既存の判断がない場合、時の政府が判断する制度もありだろう。

 

他方で、一度判断されたものを変えて良いのかどうかについては、賛成派と反対派で大きく意見が分かれている。

 

この対立を考える前に、物事の決め方とそのメリット、デメリットを説明したい。

 

物事の決め方は、大きく分けると、人が判断するか、ルールに従って判断するかの2通りに分けられる。

人が判断する利点は、即断性に優れ、臨機応変に対応できる点だ。

反面、人の判断には、ブレが生じるし、人間関係等の感情が入り込みやすい。

ルールに従って判断すること場合は、ブレがなく、公平な判断になるが、反面、融通がきかないし、前もって決めていないことに対しては、ルールから推測して決めたり、新たにルールを設けて判断する手順が必要になり、判断が遅くなる。

 

一長一短があり、多くの制度はこの両者を組み合わせている。

 すなわち、ルールにより判断する範囲と、人が判断する範囲を定め、人が判断する部分で即決性を活かしていく。

例えば、大きな会社組織だと、どこまでを誰が判断するか、大切にする価値観は何かあたりをルールとして定め、その中で人が判断する形態を採用している。

逆に、中小企業なんかでは、即断性をより重視して、人が判断する部分が大きいかったりする。

 

それぞれに利点があり、何をよしとするかという問題だ。

 

さて、政府の場合は、どんな判断方法が良いのだろうか。

この判断には、それぞれのケースで、人々がどう対応するかを考えてみると良いと思っている。

 

1 ルールがより判断する社会の場合

政府の判断はいつも遅く融通が効かないけど、代わりに予測可能で、安定している。コネや賄賂はなかなか効かない。

この場合、悪いケースでは、変わりにくいルールの穴を探す競争を始める。

良いケースでは、安定したルールの中で勝てる方法、より良いサービス、ものを作る競争が始まる。

現在の日本により近い。

 

2 人がより判断する社会の場合

政府の判断は早く、融通が効くけど、予測しにくく、安定しない。コネや賄賂が効きやすい。

この場合、良いケースでは、うまく人間関係を調整し、政府の実力者と民間の実力者が連携して、スピードを持った決定で競争をしていく。

悪いケースでは、政府へのコネクションを作る競争が始まる。コネクションを持つ人間が、出世しやすくなり、能力はコネクションと同様に人材を評価する一つの要素となる。

高度成長期の日本により近いイメージだ。

 

さて、今の日本を取り巻く状況を踏まえた時良い制度はどちらだろうか。

2は、元々有利な条件で国際競争に臨めた、高度成長期だから良かった制度で、今の様な、コネクションの効きにくい国際競争をする場合には、国内も1で競争しないとまずい様に思う。

また、より社会を進歩させるのも1よりの制度ではないかと思う。

 

さて、ここで、話を解釈改憲、一度判断されたものを変えて良いのかという点に戻したい。

 

一度判断されたものを、その時々の政府が変えて良いという制度は、変えてはいけないという制度に比べて、かなり2によっているのだ。

これまでの解釈を変えてはいけないというルールの場合、政府は憲法本文+既存の解釈というルールの縛りの中で判断をすることになる。

これが憲法本文のみをルールの縛りとすると、かなり縛りは緩くなる。なぜならば、憲法は、かなり抽象的な文章になっているから。

そして、解釈改憲が正当な手続きと認められた場合、憲法の他の条文にもその効果は波及する。

 

政府はより判断の自由を得ることになる。

政府の判断の領域が大きくなると、政府とコネクションを持つ人は、コネクションを使って、他の人が変わると予想しないものを、変わると予想した行動をとることが可能だ。

自分が競争に負けそうな時も、政府に働きかけて競争条件を変えることができる。

そして、コネクションの価値が上がれば、政府は賄賂による収入を得やすくもなる。

 反面で判断のスピードを上げられる点とどちらをどう評価するか考える必要がある。

 

私は、民間が素早く判断し、政府はゆっくり、平等な判断をした方が良いと思っている。

政府は融通が効かないくらいでちょうど良いのだ。それがムカつく時はあるけど。

ただし、これは私の考えなので、この部分の考え方が違えば、違う判断はあり得るだろう。

 

もちろん、解釈した結果が良いとみるか悪いとみるかという点でも賛成派と反対派は対立している。

 

結果さえよければ、その手段はマイナーな問題だ。それは一つの考え方だ。

政府が変わり、手段を選ばずに、別の目的を達した時に、それはしょうがないとするならば。

そう考えた時、どう思うだろうか?

 

私は手続きをきちんと守る、ルールの支配を残す必要があると思う。

 

政権への反対で集まることは良いことか?

 

さて、今回の一件で、論点のズレと別に考えてもらいたいことがある。

 

それは今回の政権叩きの是非だ。

私は、安保法案には反対だが、政権自体を叩く行為には賛同していない。

 

それは、かつてみた民主党叩き、その前の自民党叩きとよく似ていると感じからだ。

時の政権の政策に、批判的な論評は、いつだって重要だと思う。

だが、それと今の叩きは少し違うのではないだろうか。

 

政策論争を超えた次元で相手を叩くのが、日本では繰り返されている。

短期的には、今の政権の政策を潰すのに有効な手段かもしれない。

しかし、政策論争を超えた政権叩きは、あの政権を叩いて、代わりによく見えたこの政権を叩いてということを繰り返すうちに、長期的な政治不信へと繋がりはしないだろうか。

 

長期的な政治不信が増えた時に何がおこるのか。

どの政党も悪く見えれば、政権を選ぶことに、それほど意味が見出せなくなり、多くの人は選挙自体、行かなくなるだろう。

 

その時に熱心に選挙に行く人はどういう人だろうか。

政治への関心が元々高い人達だろう。

 

一般に大きな集団では価値観は中和されるが、小さな集団では、価値観は先鋭化しやすくなる。

 

小さな熱心な集団だけが、選挙に熱心に行く状況。

かなり現在の状況に近い気もする。

 

これでは、政党も戦略として、価値観をより先鋭化させていくだろう。

そして、一般の人にとっては、政党の掲げる価値観は遠くなるだろう。

こうして連鎖は続いていく。

 

これで、社会が良くなるのだろうか?

 

逆にもっと政党の良い部分を褒め、どの政党にもより多くの支持者が集まることを目指してはどうだろうか。

多くの人が支持母体になれば、価値観はより中道寄りになることが期待できる。

そうすれば、より自分の価値観に近い政党が増え、より政党への支持者が増えることが期待できる。

この連鎖の方が良くないだろうか。

 

もちろん政策論争として、政策を批判することは必要だ。

しかし、それを安易に政権批判や政党批判の次元にするのは良くないことでなないだろうか。

 

今の日本で支持する政党があるというのは、少し言いにく。

これで良いのかな。そこを考えて欲しい。

 

賛成派も反対派も、人は見たいものを見ていた

何をどう見るかが大きく分かれた事例を一つ。

先日の委員会の最後の場面での紛糾。

賛成派はもみ合ってる写真をみて、平和と話し合いを掲げといて、最後はそうなっちゃうのと感じていた。

反対派は、議員が頑張っているとみつつ、一方で、野党議員が与党議員に殴られた瞬間をみて、暴力と感じていた。

 

私は、どちらも話し合いではなく、暴力だと思う。

反対派は、相手が強引な手段をとった時には、最後に暴力が必要だと、自ら態度で示してしまった。

暴力は必要ない。平和外交を。それを主張するなら、最後まで、目的がよければOKではなく、手段を選んで欲しいと思う。

 

何を暴力と見るのか。

人は自分が見たいものを見る生き物だ。

だから、相手を意味不明な連中と判断する前に、自分がみたいものに囚われていないかという問いを持つことが必要じゃないだろうか。

 

 

最後になるが、私は、代表が安保法案反対のスタンスだが、一方で話し合いの中で修正案を呑ませることで合意した、日本を元気にする会のスタンスを支持している。

インターネットでの賛否割合に応じて、議員が賛成票と反対票を投じるというスタンスにも。

何をしていたのかを確認すれば、賛成票を投じたことを理由に、単純に安保法案賛成派とみなすべきではないと思う。