憲法解釈を変更するって、民間活力を軽視してるって話なんだけど。
安保法制の議論は、内閣法制局VS内閣なのか?
安保法制について話題になっているけど、賛成派と反対派では、論点がかみ合っていないのではないでしょうか。
例えば、下記のリンクなんかはその典型例です。
リンク先には下記のような記述があります。
”与党推薦の早稲田大学・長谷部恭男教授の発言を見ます。
大きく2つありますが、
①「集団的自衛権の行使が許されるという点については、私(長谷部教授)は憲法違反だと考えております」
②「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないし、法的な安定性を大きく揺るがすものだ」”
とのことです。
この②が問題である理由として、
”この後に教授も発言されていますが、憲法は「内閣法制局を中心として紡ぎあげてきた解釈があり、文言・条文から直接わからない場合は、解釈を通じて意味を確定していくことになる」というわけです。すなわち、「内閣法制局が積み上げてきた見解をひっくり返すもので」問題だ、としています。
私は全く逆で、法制局が一度出した結論が未来永劫に変えられないとするのは問題だと思っています。内閣法制局は、あくまでも役所(=行政)の一つの局なのに、そこが一度でも憲法解釈をしてしまうとその後は変えられないとなれば、内閣法制局が「憲法の番人」の役割を担ってしまいます。確かにこれまでは法制局は事実上の憲法の番人「的」な役割を果たしてきました。しかし一役所の一部門が出した解釈が未来永劫変えられないということは、突き詰めると仮にその解釈が間違っていたとしても変えることができないという話になってしまうわけです。”
と言っています。
これは、長谷川教授の発言②の前半部分、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」という部分に反論しているものです。
しかし、引用されている長谷川教授の発言でより重要な部分は、後半の「法的な安定性を大きく揺るがすものだ」にあるので、この反論は論点がずれているように思います。
誰が解釈したか?は、重要度が低く、「仮にその解釈が間違っていたとしても変えることができない」ことこそが重要だということです。
つまり、論点として、「ルールの解釈者は誰か?」という問いは重要ではなく、「ルールが安定しているか?」という問いがより重要だということです。
臨機応変と朝令暮改の違い
この話を説明するために、臨機応変と朝令暮改の違いを考えて見たいと思います。
さて、どう違うと思います?
状況に応じて、打つ手を変える。
これが、臨機応変です。
この時、状況は外部から与えられたものです。
それに対して、朝令暮改は、
朝決めたルールを夕方に変える。
この時、状況(≒ルール)は外部に与えるものです。
プレーヤーの立場で考えたとき、ルールが変わると、それに対して戦略を組み直さなければなりません。
ルールが変わるのが頻繁である時と稀である時の大きな違いは、長期戦略の重要性にあります。
ルールが頻繁に変わる場合、長期戦略を立てるのは、前提条件が変わる以上は無駄な労力で、短期的にペイする戦略こそが重要な戦略です。つまり投機的な戦略がより重要になります。
ルールが安定している場合には、長期戦略の重要度が上がり、短期的にはペイしなくても長期的にはペイする戦略が重要になります。つまり投資的な戦略がより重要になります。
さて、逆にルールメイカーの立場で考えた時はどうでしょうか。
ルールが頻繁に変えられる場合、ルールメイカーは、プレイヤーが自分が思ったのと違う行動をとれば、ルールを変えることで対応します。
つまり、ルールメイカーがルールをコントロールする部分がより重要になり、それを通じて、ルールメイカーが全体の状況をコントロールします。
ルールが頻繁に変えられない場合、ルールメイカーはある程度は状況をコントロールできても、プレイヤーが思ったのと違う行動を取っても、対応は難しく、プレイヤーがその状況の中で有効な戦略を競う部分が重要になります。
つまり、プレイヤーが各々の戦略を立てる部分がより重要になり、それ通じて、プレイヤーが全体の状況をコントロールします。
ルールメイカー=政府 プレイヤー=民間
「仮にその解釈が間違っていたとしても変えることができない」がなぜ重要の説明に戻ります。
法律の話では、ルールメイカー=政府で、プレイヤー=民間です。
こういう観点からみると、
ルールが頻繁に変わる→全体の状況を、政府の主導でコントロールし、民間は短期戦略でそれに対応する。
に対して
ルールが変わりにくい→全体の状況を、民間の競争がコントロールし、民間は長期戦略で対応する。
という対応関係があるのが分かると思います。
つまり、
ルールが変わりやすい=政府主導、投機的行動推奨
ルールが変わりにくい=民間活力主導、投資的行動推奨
という関係になります。
例を挙げると、一般的には汚職の多い途上国では、法律の解釈は、賄賂の多寡で変わります。
そうなると、人々は、長期投資的な能力を伸ばすみたいな行動は控えて、今儲かる時に全力を注ぐとなります。
よく言う
途上国の人は怠けてる→経済が弱い
の裏には、
ルール変更が容易→今のルールに合わせてもしょうがない→怠けて見える→経済が弱い
という構図があるということです。
逆に、法律が安定的な先進国では、
ルールが難しい→今のルールに合わせて能力を磨く→努力してるように見える→経済が強い
という関係があります。
この観点で見ると、「法的な安定性を大きく揺るがすものだ」という懸念の意味するものが分かるでしょう。
憲法解釈変更の閣議決定のヤバさ
法の変更の手続きを軽い(楽な)ものから、重い(大変な)ものの順に並べると、
通達→省令/規則変更→政令変更→閣議決定→法律変更→憲法変更
となります。
憲法というのは、その変更手続きを見ても、法律の中でもっとも変えにくいと期待されるものです。
つまり類推として、憲法解釈(憲法に関するルール変更)が出来れれば、他の法律はもっと変えやすいという推測が成り立ちます。
憲法解釈を、政府が変えられる状況が意味するものは、何か?
憲法解釈を変えてはいけない!なんて極論を言うつもりはないけれど、憲法解釈を変える手続きが閣議決定(法律変更より軽い!)ってのは、民間プレーヤーからしたら、マジかよ!?って話じゃないでしょうか。