酒記
お酒を飲みながら、とても好きな佐藤可士和さんの本を読む。
ふと、人間、自分の嫌いなものの分析は余りしないという一節が目に留まる。
文脈は、嫌いな理由を分析して、それを好きになるためにはとつづく・・・。
嫌いなもの。”者”が真っ先に浮かぶ。
きっとそれは腹の底でこちらを見下す人。特に、嫌いなくせに、表面上はそれを隠そうとする人。
なぜ、嫌いなのか。
きっと自分は人の悪意には過剰な反応をしている。
そして、もう一つ。
きっと自分が嫌いな人は、悪意の隠せない不器用な人だ。
悪意は気づかなければ、ないのと同じこと。
それが分かっていても、気づいたものには反応してしまう。
私はとても気難しい人だと思う。
自分の中には、とても短期な”ケダモノ”が棲んでいる。
気づいてから二十と数年。こいつが嫌だと思い続けて来た。
数ヶ月の間は凹む程度の、痛い目に遭うことも何度もあった。
でも、相変わらず自分の中に居る。
少しは付き合い方が分かって、マシになったかも知れない。
でも、きっと周りからみたら大して変わってない。
人は変わる。私はこういう話にはとても懐疑的だ。
自分のことをみることには自信は持てないけれど、周りの人間をみる限り、出会って二十年程度で変わった人は知らない。
変化はもちろん、誰に限らず大なり小なりある。
だが、元々持っていないものに変わることはほとんどない。
自分の中のどの要素が強く表にでるのか。
そういうことはあっても、持っている要素は変わらない。
そして、一見、表に出てこない人間性も文脈を知る人間にはすぐ分かる。
そうじゃない人間にもきっといずれ透けて見えてくる。
だから、自分の持っているものから始めるしかない。
これは、ただの諦め。
それと同時にそこからスタートするしかないという話だ。
私は自分の手札を見つめることが、ポジティブのスタードだと信じている。
それは同時に手札と向き合えないうちは、ポジティブとは呼べないと信じているということだ。
幸いにして私にも友達がたくさん居る。
心の底から尊敬する大好きな友人達だ。
きっと、こんな文章を書いて、最後まで読んでくれる人は、私のことが好きな人と嫌いな人だろう。
あるいは、そのいづれかになろうとしている人。
少し話はそれるが、大好きな友人達へ。
あなたが居るから、私は私で留まれる。
本当に感謝している。いつもありがとう。
あなたが人間をポジティブにみてくれることで、私は本当に救われている。
私はとても我がままな良い人のメッセージによく共感する。
人間としてとても矛盾している、我がままな良い人。
でも人間は矛盾したものだ。
良い人であろうとすることで、良い人になれるほど単純に出来ていない。
自分の本質はどうしたってでてしまう。
特に自分が怒ったとき、弱ったときに。
それでも良い人でありたい。
それだからこそ、良い人でありたい。
私が尊敬するあなたの様に。
きっとそうやって我がままな良い人は出来上がる。
そういう人は基本的には嫌な奴だ。
嫌われることの方が、好かれることの倍くらいは多いんじゃないだろうか。
でも、好いてくれる友人にとっては良い人なのかも知れない。
深く人を知ろうとしてくれる人。
そういう人はきっと人が好きなんだろう。
あるいは、人のどうしようもなさを良く知っている人なのかもしれない。
いづれにせよ、私の友人は付き合いの浅い人と、私の尊敬する人がほとんどだ。
裏を返せば、一定の人は付き合いが深くなるにつれて、離れていく。
めんどくさくなるんだろう、きっと。
人は自分が嫌いな理由はあまり考えない。
含蓄のある言葉だ。
これは私の妄想、願望かも知れないが、私には友人は少ないが、”親友”は多い。
強調するのは少し照れくさいが、親友の意味が少し薄くなっているように感じるいま、どう表現して良いのかが分からない。正直なところを躊躇いなく話せる相手という意味だ。
お互いにバレてる相手なことも多いんだろう、きっと。
善人をとても信じているし、とても懐疑的だ。
少ない、けれど居るという意味で。
自分は自分の嫌いなものあまり分析しない。
その、例外は自分の嫌いな部分かも知れない。
自分が自分を嫌いな理由ならいくらでも喋れる。
でも、そのほとんどに意味はない。
嫌ったから変えられるのは、本当に一部だから。
自分の良い部分の延ばすことは出来る。
でも、嫌いな部分を消すこと。
これは出来るのだろうか?
自分に何度、どんなに絶望しても、そこにいる自分から始めるしかない。
だから、人はもがく。
私はそんなもがく人が好きだ。
良い人と同じくらい。
もがくしかない。
もがくしかない。