気まぐれ日記

更新は本当に気まぐれです。主にtwitterに書くには長いなと思ったネタを書きます。

Justice

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

マイケル・サンデル著、「これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学」(原題「Justice: What's the Right Thing to Do?」)を読んだ。

眠れない夜。想いを書きとめるノートとしてのブログ。
考えながらまとめる散文ですが、興味のある方はまた小難しく変なこと考えてるよと、おつきあいを。

あ、ネタばれも書くので注意してください。

NHKで話題になったハーバード大学の講義を元にした著作。
現代までの政治哲学を、正義を巡る3つの解釈に分類し、事例を交えながら説明していく。

事例はいわゆる極論が多い。
しかし、読んでいくと、哲学的な問いの本質を考える時に、極端な事例の持つ問題喚起力、説得力は確かに支持できる。
詳細な内容はとても面白い本なので、興味のある方は是非、自分で読んで頂きたい。


3つの分類とは

1つ目は功利主義の正義、最大多数の最大幸福というやつである。合理的に幸福を計算し、その最大化を図る思想の系譜は経済学的でもあり、興味深い。

2つめは自由を正義とする立場。互いの自由を侵害しない限りにおいて、自由そして、人権を擁護する立場。最も純粋な一派がリバタリアンと呼ばれる。
ロールズの、自分が社会的にどういう立場の人間か、例えば、金持ちか、貧乏か分からない、仮想状況で合意によりルールをつくると思想実験で導かれる正義である。
合理的に導かれる、権利を擁護する立場といったところだろうか。
私見では、自分を含めた現在の若い人の発想はこの立場にかなり近いように思う。

そして、3つ目は美徳。道徳的、宗教的、あるいは社会的正義が先に存在し、そこを目指すことを正義とみる立場。
おそらく、古い世代の発想とみられがちな立場である。

著者の立場は3番目とのことである。
もちろん全てを含んでいるのだが、2番と3番の中間、3番寄りという面が強いように見える。
著者はアメリカ人なので、日本人の私からみると2番寄りに見えるという話なのかもしれない。

著者は前述の自由を主張するリバタリアンと対立した、コミュニタリアンと呼ばれる一派の主要論者で、負荷を持った個人が、自分の物語を選択するという哲学観を持っている。

負荷を持った個人とは、集団に属している個人のことであり、集団に属することで、利益をもらっているから、その分、責任も背負うということだ。
例えば、それは、仲間の集団が持っている優位性であり、仲間の集団が過去に犯した過ちの責任である。
著書の中では日本人として産まれた利益とアジアに対する戦争責任が例に出ている。

この負荷を持った個人が、折々の選択の機会に、所属する集団を選ぶ存在、自分の生きる物語を選ぶ存在として描かれる人間観。

中々に説得力のある人間観である。

ここで、ふと考えてみる。
戦中世代は祖父の世代にあたる私。
所謂ニュータウン育ち、核家族化していた、私の故郷では、祖父母と同居する人間は圧倒的に少数派だった。
私たちの育った周りで、戦争をリアルな体験談として聞いたことのある人間はきっと少数派だろう。

私自身も、生の声として戦争体験を聞いたことがない。

私に戦争責任は存在するのだろうか。

著者の言うように、日本人に産まれたことでの利益は確かに受けている。

しかし、ここで疑問に思うのは、歴史の中で、一定のまとまりを持った集団というのは、なんであれ、あるときは加害者であって、ある時は被害者であるというのが常なのではないだろうか。

私が背負うべき集団の責任はどこまで遡るべきなのだろうか。

また、たまたま近年に過ちを犯した集団の、現在の世代が背負うべきものが、大昔に過ちを犯した集団現在の世代より重い理由はなんだろうか。

得ている利益が違う?
それが理由ならば、その利益は戦争がどこまでリンクしているのだろうか。

著者の主張には、集団の持つ責任に時間が経過した時、どこまでを現在と強くつながっている、とするのかという線引き問題が残っている気がする。
歴史を無限に遡り、その責任を全てという議論だとしても、歴史は全ては遡れないので疑問が残る。

もちろん、著者も単純に存在するとは言ってはいない。
が、条件によってはしうると少しぼかした書き方をしている。


解決すべき問題は残っているものの、著者の主張には一定の共感を覚える。
おそらく、それは私が人間を集団の一部を生きる生き物として捉えているからかもしれない。

私が不勉強なだけかも知れないが、自由主義、あるいは功利主義的な人間観というのは、個人で生きる生物としての人間をベースにした哲学ではないかと常々感じていた。
個人というのは、もちろん、社会に属していないという意味ではなくて、単体で完成した生物としての人間として。単独で狩りをする生き物を思い浮かべてもらいたい。

私は人間はそういう風に出来てはいないのではないかというところに、強い違和感を覚えている。
私の知る限り人間は群れで行動し、狩り、採集をする群体としての生き物である。
個人という概念は、自立やアイデンティティというものとともに、近代の日本に輸入された概念であったかと思うが、これはキリスト教とつながった、神の元での平等な個人という概念をもとにしている、いや、記憶が曖昧だ。。いた、はず。

このヨーロッパ的な近代人の概念は、神を持たない私にはきっと合っていない気がする。
私にはこの個人や自立は非常にきつい。

私のみる限りでは個人や自立の問題にぶつからない人は、既に何らかの安定した集団に居る人や、振る舞い、空気を読む、仮面の掛け替え、そういった能力に長けていて、一時的に集団に入り込める人である。
逆に、そういう問題にぶつかる人は、自分のルーツの集団、家族との関係になんらかのトラブルを抱えている人が多いように感じる。

幸運にも集団に属している人は余り対面しないで済む個人、自立、アイデンティティ問題。
これは、対面した人にとってはとても消耗する問題である。

この根底にあるのが、ロールズ的な西洋的個人を踏まえた、正義概念であるように感じる。
そして、それに対するアンチテーゼとして、著者、サンデル集団主義が私には受け入れやすかった。

解釈としてはかなり邪道な部類であるのかも知れない。
しかし、負荷を背負った個人が、物語を選択するという人生観は、小さい頃から無意識的に身につけたロールズ的な正義観と、集団としての生き物として人間を捉える私の感性の間の衝突に少し光明をもたらすように感じる。

そのまま、すとんとは落ちないが、いきなりデュルケーム的な集合表象(集団のしきたりや慣習の支配)を突きつけられると、それはそれで、う〜ん、それもちょっとなあ、と納得できない私には新しいスタートラインのヒントになった一冊かもしれない。

貨幣換算しにくい部分を扱う、政治・経済学の学徒としては、こういう政治哲学的話題はとても参考に、そして刺激になる。

理系的な、生物学的人間と、文系的、哲学的人間。
そのバランスの取れた哲学というのを考えるとどうなるのだろうか。
経済学に行動経済学が現れたような変化は既に政治哲学には起こっているのだろうか。